小説 多田先生反省記

17.夢うつつ

 一年の間にいくらか荷物も増えたので今度はリアカーで運ぶことも出来ず引っ越しは運送屋に頼んだ。大野が団地のアパートで待機している。私は下宿の部屋を掃除してから神崎と一緒に遣って来た。荷物の量からして大の男が三人いれば十分だろうと踏んでいたのだが矢張り女性の手が欲しい。おまけにアパート暮らしを始めるとなると実にこまごまとした日常のものが必要になってくる。掃除機や雑巾は大野が自宅から持ってきてくれていた。ガステーブルやら照明器具そして食卓なども買い揃えた。皿や小鉢なども必要だ。大野は以前に増して頻繁に来ることになろうということで大野の食器も買い揃えたのだが、五郎八茶碗が二つ並んだ台所の棚の様子は新居にはそぐわないような心持がした。その晩、大野は家庭教師のアルバイトがあったし、神崎も日暮れとともに下宿に帰ってしまった。カーテンもない部屋で明かりを煌煌と照らしながら私はベランダに立って外を眺めていた。一人で部屋にいると侘しくて堪らなかったのである。下宿生活では日常の動きは須(すべから)く一部屋で終わっていたのだが、たった一人で三つもの部屋を占有したせいか落ち着かない。夜になって布団をどこに敷こうかとうろうろとする有り様である。

程無く康子から座布団と小さな二人用の釜が送られてきたので、一緒に届いた宮城のササニシキを炊いて大野と一緒に食事をした。珍しく酒抜きの夕飯となったのだが、おかずは当たり前のことながら幾つかの缶詰である。昼に研究室に遊びにきた大野を誘って近くの鮨屋に行って、適当に鮨を摘まみながらビールを呑んだこともあって夜は酒を抜いたのである。大野から「先生、昼からこげん贅沢ばしよって康子さんの婚約指輪をこうてあげられんようなりませんか?」と冷やかされたが、少しばかりいいネタであっても鮨をご馳走した方が呑みに行くよりは安上がりだ。それにしても大籠に電車賃を借りてからは酒量が減ったような気がする。結婚するという自覚がそうさせているのかもしれないとも思う。大学までは歩いて半時間ほどの距離なので、行き帰りはもっぱら自分の足を頼りにしている。仕度が面倒なので朝食は食べずにいたが、ある朝のこと大学に向かっているうちに腹が空いてきて行き倒れになりそうで、途中で一膳飯屋に入って腹拵えをしたらホッとした。11月までの月日の長さが実感させられた朝だった。晩の食事の世話を大野の母親に持ち掛けようとしたのだが、「お袋も毎日の事となると気を遣うでしょうから」ということでおじゃんになった。

ある晩、大野の部屋を訪れていたとき、偶然、民江さんが現れた。歳は私と同じだ。落ち着いた雰囲気の漂う女性だった。玄関口にある電話の呼び出し音がけたたましく鳴った。「親父からでした」と云って大野は向かい側の両親の家に行ったと思ったらすぐさま帰ってきた。「親父はロッキングチェアに坐ってからに、僕にテレビのチャンネルば替えろ、云いよるんです」

 「へえ、そんなことで電話を掛けてくるのか?」

 「いつものことですよってに。先生、お袋が間もなく帰りますよって、そしたら先生にお出でいただきたい、云いよります」

 民江さんが帰って間もなく大野の母親が戻ってきたようだった。

 「センセイ、何もありませんけど、どうぞお酒でも呑んでいっておくなはれ」母親が声を掛けてくれた。大阪弁が抜けきらずにいる。最初の『セ』にアクセントが置かれていた。

 「センセイ、どうぞ!」父親は例のロッキングチェアからダイニングキッチンのテーブルに身を移していた。母親と同じく大阪弁だった。

 「ビール、呑みはりますか?お酒のほうがよろしいか?」

 「はい、それではビールをいただきましょうか」

 「ブンリョウ、ビールを出せ!」大野は自らを久弥と名乗っているのだが、戸籍上は文亮という名前だ。畏(かしこ)まって冷蔵庫からビール瓶を出してきて、栓を抜いた大野は両の手でビール瓶を捧げ持って私と父親のグラスにビールを注いだ。

 「お前も、呑むやろ?」

 「はい、いただきます」

 「センセイ、こいつは又もや浪人に成り下がりましたさかいに、普段は酒なんぞよう呑ませんのですけど、今夜はセンセイがご一緒やし、いつも何やらセンセイにご馳走になっているよって、特別ですわ」

 「大したご馳走なんかしてはいないんです。僕の方こそ折に触れてお母さんのお料理を運んできていただいて恐縮しています」

 毎晩の賄いは断られたが、折につけ大野が母親の手料理を運んできてくれている。

 「センセイ、何を仰いますやら。わたしのはお料理なんて言われたら、恥ずかしいわ。いつも有り合わせの物でしかでけしませんよって…」

 「いえ、本当に有り難いです。晩飯作るの面倒だな、なんて思いながら帰ってくると食卓に豪勢なおかずが並んでいたりして、感激しています。これが家庭の味なんだろうな、結婚したら毎日こんな風に食卓が賑やかになるんだろうな、なんて思いを噛みしめながらいただいています」

 「センセイは11月にご結婚なされるって文亮から聞いとりますが…」父親が聞いてきた。

「そうなんです。まだまだ何か月も先の事なんで気が遠くなりそうです」

「センセイ、よろしいやおまへんか。楽しみは先に伸ばして今のうちにタンと羽目はずしたらよろしいがな。お嫁はんが来はったらわたしが嫁としての心構えなんか、よう言うて聞かせますよって」

 「お母ちゃんが姑根性出すところやあらへんがな」

 「そうやな、文亮の云うとりや。おまはん、余計な口、挟まんときや。ビールが無いがな。文亮、持ってこい」

 「冷えたのはこれだけでした」

 父親はさして酒を飲まない性質のようだ。

 「あら、センセイ、スミマセンな。お父ちゃんは普段あんまり呑まんよってに。ほな、氷あげまひょか?」

 オンザロックのビールと相成ったが、グラスのビールが冷えるのを待っていては薄まってしまう。勢いグラスのビールが冷える前に飲み干してしまう。日本酒に切り替えた。

 暫くして修猷館に通っている弟の久貴が帰ってきて一座に加わった。久貴とはすでに顔見知りとなっている。一頻りビールとお酒を飲み、心づくしの手料理を食べて、私は待つ者もいない部屋に帰ってきた。キッチンと隣り合わせの六畳間を仕切る襖が邪魔に思えたのでそれを全て取り払った。台所とキッチンが一続きとなっていくらか広々としたが、その分だけ間延びしたような気がしないでもない。

 康子との連絡には久弥の家の電話を使わせて貰うことにした。毎週、取り決めた晩の八時を待ってダイヤルを回せば、折り返し康子が電話を掛け直してくるという手筈になっている。研究室にも電話機はあるが、内線専用で外線からの電話は階下の事務で受け止めてから内線電話で連絡を寄越す。それで改めて電話部屋へと出かけて初めてその相手方と話すことが出来る。九州大学では研究室から交換台を通さずに、どこにでも電話は掛けられるし、電話が受けられる仕組みになっていて羨ましい。洗濯物は一週間貯め込んで、康子との電話での遣り取りの晩に矢張り久弥の家にある洗濯機を使わせて貰っている。全自動なので電話をしている間に全てが整う。ということはいつだって1時間近く電話をしていることになる。帰りがけに大野の母親が缶入りのバターを手渡してくれた。冷蔵庫がないので溶けてしまうのでないかと心配したが、大野が「ビニール袋に入れて、水を張った鍋に入れておけば大丈夫」というので貰ってきた。

ある晩、大野と民江さんが私のアパートに遣って来た。野菜サラダと焼肉の差し入れだった。

 「先生、僕は先生のこと、こんな事云うたら失礼やけど、教育者としてよりも一人の男として魅力を感じよります」

瞬時にいつか久弥を誘ってストリップ劇場に行ったことが思い出された。

 「そうだろうね、俺は殊更お前には教育者らしいことを云ったことはないしね」

物言いだけにあらず、教育者としてあるまじき事もしている。

 「そんな意味ではなかとです。先生とはどこかで同じ価値観いうか、物事の尺度いうようなもんが同じやなあ、と思う時もありますけど、時には正反対のこともあるとです」

 「そうだよね、全く相対立する見解を持っていることに気付かされて、ふと淋しくなっちゃう時もあるけどさ、それでいて惹きあうところがあるね」

「僕がもう一度、九大を目指そう思いよったのも先生の一言のおかげなんです。あれで僕は目が覚めよりました」

 「そうなんですよ。久弥さんはですね、いつも先生がおらんかったら僕の人生は平坦なだけになっていたかもしれん、って云いよりますもん」民江が云った。

 「僕は、民江ば好いちょりますよってに、何とかせなアカン思ぉとります。だから、九大は諦めて城南に入ったとです。はよ、一人前になって落ち着かなアカン、そんな事ばっかり考えよったとです。でも、本当にそれでヨカろうか?確かに民江は先生と同い歳でっさかい、いつまでも僕が宙ぶらりんになっとってはいかん思いよりますけど…」

 「先生って、わたしと同い歳って久弥さんから聞いた時には驚きました。えらい若い先生やなぁって。そしてこの秋にはご結婚なさるって聞いてからに、またまた驚きました」

 「先生、僕なんかは結婚なんてまだまだ先のことですけど、一つお尋ねしてもよろしいですか?」

 「何を?」

 「先生はどうして康子さんとご結婚なされることにしたんですか?一度お伺いしましたけど、よう分からんとです」

 「俺は康子に惚れているからさ。…それじゃ一体どこに惚れたのかと聞かれりゃ、康子は女の哀れを併せ持った人だからということになるかな」

 「あわれですか?」民江が重ねて聞いた。

 「そうです。日本書紀の中に『泣きそぼち行くも影媛あわれ』という歌があるんですが、その影媛のあわれと同じ、物の哀れを湛(たた)えている女性なんです、康子っていう人は」

 「女の美意識でしょうか?」

 「その通りです。とりわけ男性には欠けているその美意識、何処までも大和の女としての感性ですね。理性で自分を抑えつけようとしない、そんな女心こそ僕が追い求めてきたものなんです」

 「物の哀れ、本居宣長が云うところの『こころ』ですね」

 「民江さんは僕が云いたいところをずばっと抑えてくれていますね。その通りです」

 大野が大きく頷いた。熱く語って私は喉が渇いた。お酒は一滴も飲めない民江さんが近くの酒屋に行ってビールを買ってきてくれた。

 私が近いうちに結婚することは城南だけではなく、九大の看護学部でも広まっているようだ。教養部のある六本松へ帰ってくるなり、松浦が笹栗に云った。

 「クリさんよ、今日の授業でな、この俺のドイツ語の単位を落とすと、来年、若い独身の先生に教わんなくちゃなんねぇぞ、って云ったら、学生たち、喜んで落とす、なんて云いやがったんだよ。だからな、慌てて、もう赤札がついとるんだって云ってやったよ」

 「おい、多田、お前このところ心ここにあらずっていう感じだぞ。今だって早く帰りたくってしょうがねぇなんて顔してやがって」

 「クリさんよ、今日は帰してやろうよ。なあ、多田君、手紙が来ているんで早く帰りたくってしょうがねぇんだろう」

 全てお見通しである。いざ結婚生活が始まったらどうなるのか分かったものではない。女房なんて気にしていないというような顔付きをしなくてはならないのだろうが、私には出来そうにもない。喜びも悲しみもいつだって露わになってしまうのだ。

 英語の高宮から、私の新居からはさして遠くない団地に引っ越しをしたので一度遊びに来るようにと誘われたので、のこのこと出かけて行った。私の部屋と同じく家財道具らしきものは何もない。

「何もないでしょ」と言いながらニヤニヤしている。「もうすぐ家族が一人増えるんです」と吐露した。高宮にはこの秋に結婚することになっていることは話していた。いつか高宮は「近くの土手を散策してみたけど、実にいいところだ」と言っていた。そんな所を独りでほっつき歩いたところで、面白くも何ともなかろうと思ったのだが、口に出さないでよかった。高宮はその生活環境の変化をさり気無く惚気ることで独り悦に入っていたのだった。私と同じ心境だったようだ。

「九月に結婚式を挙げることになりました」

「そうですか、高宮先生もいよいよ結婚することになったんですか」

暫く前に高宮の口から見合いをしたことを聞いていたことが思い出された。私自身の結婚のことは誰彼となく吹聴して回っていたのだが、高宮の見合いのことなぞ頭の中からすっぽりと消え失せていた。

「九月まで待っているのは面倒だから、一緒に暮らすことにしました」と云う。それは奥さんの実家が久留米で、実に遠いからということだった。私のように博多と仙台の距離と照らし合わせてみるに、久留米なんぞそれこそ「鼻くそんごつ近い」ということになる。奥さんと暮らし始めたら改めて招待すると言われたが、癪に障ったので改めて訪ねて来る気にはなれなかった。

「多田先生もさっさと一緒に暮らしたらいいですよ」

そもそも結婚もしないうちから同居するなぞ、そんなふしだらな事は思いもよらない。私はこの五月の連休明けを待って東京で開催される学会に出掛けるのだが、私の実家を訪ねてくる康子の母親と会い、入れ替わりに遣って来る康子と会えるのはまだ暫く先のことだ。六月には康子が差し当たり必要な電気製品を買いに来ることなっているので、その時には高宮を我が家に招くこととしようかとも目論んでみた。これから先、康子と会えるのはひと月毎になりそうだ。初夏を思わせる今から先、結婚までの月日を指折り数えるに天文学的な日数に思われてならなかった。

 アパートで独りきりでいるのが無性に寂しくてならず、このところ雨風を厭わず毎日研究室に通って、表向きは夕暮まで熱心に研究活動に没頭している。それが認められたのか、建て増しされた新しい研究室が宛がわれることになった。知らぬが仏とはこのことかと思いつつも城南はミッションスクールなのだから、仏とは言えないかもしれない。兎も角、研究室では引っ切り無しに訪ねてくる学生たちを相手におよそ学問の広場に相応しからぬ話題に興じ、時には昼寝を貪るという、実に不真面目極まりないこんな私に新しい研究室を提供してくれるとは有り難い話である。研究室の引っ越しにあたって大野が手伝いにきてくれた。こちらもさしたる荷物もなく、半時間ほどで終わってしまった。以前の研究室よりも広い。同じ三階にあるのだが、窓は中庭に向かっているので、時に青い海原を見渡して疲れた頭を休めるといった小さな楽しみはなくなってしまった。部屋が広くなったのは良いとしても、アパートと同じく書棚も閑散としていて落ち着かない。日も暮れかかって大野と一緒に帰り道を踏んだ。大野の部屋に立ち寄って我が家に帰ってきた。大野もくっついてきた。

 「先生、朝ごはんの片付けが出来ておらんですな。僕がしますよって」 

 「いいよ、自分の食った後片付けくらい、自分でするから」

 「そんなら、僕は今夜のご飯研ぎましょう」

 米を例のお釜に入れたまでは良かったのだが、私が台所の流し台を使っていたので大野はそそくさと洗面所に行った。私は慌てて大野を制した。

 「先生、意外と神経質なんですね」大野は呆れたような顔でそう云ってのけた。

帰り道で買い求めた野菜や肉などで食事の準備をして、いざ二人して粗末な夕食を採ろうという段になってピンポーンと音がして大野が玄関に出て行った。

 「先生、来ました!」

 大野は赤字で速達と印の押された封筒を押し戴くようにして持ってきた。

 「そこに置いとけ!」

 「どうぞ、僕に遠慮せんとお読みになってください」大野はニタニタとしながらも意地悪そうにその封筒を私の前に突き出してきたので、私は仕方ないといったような顔で封を切った。食卓の向かい側から大野は手紙を覗き込もうとするが、私は巧みに体を躱(かわ)して読み耽った。

「声を出して読んでくださいよ」と大野が幾度も請願するので私はその文面をドイツ語に翻訳して読んで聞かせた。

 「いつか康子さんにどんな事を書いたのか教えて貰うからいいもんね」大野はそう悪態をついた。

 学会は四谷のホテルで開催された。週末の二日だけだったが、その後も東京に長居をして博多に帰ってきたのは出掛けて10日ほど過ぎてからのことだった。康子の母親が私の両親への挨拶に出向いて、引き続き康子が入れ替わりに遣ってきて、妹の恵美の結婚式に出席した。アクアマリンの婚約指輪が康子の華奢な指に楚々とした輝きを放っていた。

 博多に帰り着いて数日した夜の事だった。教授会が長引いて家に帰り着いた頃は既に陽は沈んでいた。部屋の明かりを灯すと、食卓の上にご馳走が並んでいる。横には「お留守でしたのでこれにて御免。夜遊びはいけませんぞ。やす子」との走り書きがあった。大野が持ってきてくれていたのだ。時には大ぶりの蟹であったりしていつも贅沢極まりない。一度、酢豚を持ってきてくれたことがあった。食べてみたら鶏肉だった。しからば酢鶏というべきか。その翌日は短大の授業があった。六本松の教養部までのスクールバスではいつもの如く松浦と同席した。

 「一昨日、帰って来ました」

 「え?そんなに長いこと東京にいたのか?それとも仙台まで足を伸ばしたのか?鼻の下をでれ〜って伸ばしながら」

 「いや、東京にいました。妹の結婚式もあったものですから」

 「奥さんも来たのか?そうだろうな。それでずっと奥さんとべたべたしてたのか?」松浦は周りの同僚にかまわず大きな声で喋りまくる。「秋になったらお前さんはここからタクシーですっとんで帰るんじゃねえか?そうはさせねえぞ!うわっはっは!」

 間もなく康子が博多まで来ることは内緒にしておいた。

 博多の梅雨時の雨の降り様は尋常ではない。傘をさしていても濡れないのは頭と顔だけだ。文字通りバケツをひっくり返したような雨脚で下からも勢いよく雨が湧き出してくるような具合である。その日は梅雨の合間を縫っての晴天で実に清々しかった。青い空に白い雲がにょきにょきと姿を現しているその景色は心を洗い清めてくれるような気がする。晴れやかなその夜、私は夢をみた。康子と結婚式を挙げている夢だった。康子は「突然に、こんなに早く結婚できるなんて本当に夢みたいね」と云っている。「ジューンブライド、六月の花嫁というコトバがあってね、六月に結婚する人は幸せになれるんだよ」などと私は気障な台詞を吐いていた。夢から覚めてちょっぴり気が抜けたが、その夢の余韻に戯れて授業中も心は浮き立って、学生の頓珍漢な答えにも私は殊更丁寧にその間違いを直したり、親切に教えてやった。学生は気味悪そうな顔付きをしている。私が結婚することは学生の間にも徐々に浸透しているようで、研究室を訪ねてくる連中は興味深げに聞いてくるが、私はいつだって曖昧に返事をして誤魔化している。だが、大野と二人だけの時には手放しで惚気てしまう。大野は「ご馳走様です。そろそろお腹が空いてきましたね」、「ビアガーデンはまだ開いてないかな?今日はビアガーデンどころではありませんよって、中州のクラブにでも連れていってもらわなアカン」など宣っている。

 康子が来るので一週間前あたりから丹念に掃除をしていて食器が足りないことに気が付いた。皿やら箸なぞは一応二人分はあるのだが、五郎八茶碗を初め、片割れは大野のものである。電化製品と共にそれらの物も一緒に買い込まなくてはならない。当面の所帯道具を買い揃えるためのお金はすでに康子が私の銀行口座にたっぷりと振り込んできてくれている。これで週末には長崎まで行けそうだった。

 康子は私の両親のもとに立ち寄って、その晩の寝台車で博多まで遣って来た。その前日は教授会がはねた後、塔原や高木らと一緒に中州に繰り出して飲み回り、夜もとっぷりと更けた時分になって漸くアパートに帰ってきた。小さな黒い物がかさこそと部屋を走りっている。部屋の電気を点けたら、それがぴょんと白い壁に張り付いた。ゴキブリだ。ゴキブリの方はもう隠れた積りになっているようだが、家具はないので退治は簡単だ。新聞紙を丸めて叩き潰してコンロで火炙りにした。翌朝になって目を覚ますと、お日様はすっかり頭の上の方まで昇っていた。タクシーを駅まで走らせたが、約束の時間はとうに過ぎている。康子はぼんやりとホームのベンチに腰を下ろしていた。アパートに戻ってきて、康子は初めて私達の新居に足を踏み入れた。玄関には下駄箱代わりの段ボールが置いてある。大野の母親から紹介して貰った電気店に出かけた。大型の冷蔵庫、扇風機そしてガス炊飯器などを買い込んでそれは届けてもらうことにした。雑貨屋にも寄って食器も幾つか買い揃えて、デパートで食糧もたんと買い込んだ。食料品をデパートで買うのは初めてだったが、康子からすれば日常のことのようだった。何を買うにも慎重ではあるものの必ず上物しか選ばない。目利きでもある。母親譲りかと思ったが、買い物に際して母親は金額の多寡には目もくれずスパッと買うそうで、そこだけは違うようだ。食器売り場で小刀のような奇妙なものを買い込んでいた。ナイフではなかった。先っぽのステンレスが幾分反っているその背と腹の部分がギザギザになっている。併せて小さなスプーンも一緒に買い求めた。これも先端がギザギザになっている。その小刀のような代物はグレープフルーツの果実と房を引き離す小道具であることが夜になって分かった。夕方になって大野が現れて康子の手料理が食卓に並べられた。玄人裸足の母親から料理の手ほどきを受けているだけあって腕前は群を抜いている。私の見立てに間違いはなかった。大野はビールを幾本も呑んでガス炊飯器で炊いたご飯も自分の五郎八茶碗でむしゃむしゃと食べている。初めて会った二人だが、共に私を介してその人物像は熟知しているので互いに遠慮するところはない。デザートのグレープフルーツを平らげた後で、その皮を二つ折りにして、残りの汁を最後の一滴まで飲み干した大野はいつしかキッチンの板の間でごろりと横になって鼾をかきだした。電気を消して私たちも寝入ったのだったが、大野の鼾にはシューシューという聞き慣れない音が混じっている。変わった鼾をかくものだと感心していたが、康子が起き出してキッチンの明かりを灯した。大野はガス炊飯器を蹴飛ばしてしまったようで、ゴムホースが外れてガスが漏れていたのだった。危うく大野はガス中毒で命を落とすところだった。

その週末、私と康子は長崎へと出かけた。長崎ではタクシーを頼んで随所を見て回った。タクシーの運転手は「長崎には『か』のつくものが三つある」と云う。バカ、ハカ、サカだそうだ。どこにも呆れるほどの坂がある。墓所も多い。しかし、バカとは何事か?長崎県民はかなりおっとりとした人たちが多く、そうした県民性を自らバカと呼んでいるとのことだった。成る程、バスに乗っていても一番後ろの席に座っている乗客はバスが停留所に停まってから、やおら立ち上がり「えらいすんませんな、降ろしてください」と声をかけながら大勢の乗客の間をのそのそと縫って、一番前の運転席の横にある出口までゆったりと歩いている。気ぜわしい東京では絶対に見かけることのない情景だった。長崎に泊まって佐世保から私たちは船に乗った。平戸行のフェリーだった。船縁(ふなべり)に寄り掛かって岸壁を眺めていたら、下の方から年嵩のいった老人が大声で何やら語りかけている。何度か聞き返して「どこまで行くんだ」と聞かれていたこことが分かった。「平戸島で船を乗り換えて平戸口まで行って、そこから電車を乗り継いで博多に帰る」と私は答えた。爺さんは「平戸島に泊まるのか?」と更に聞いてきた。「今日の内に博多に帰る」と応えたら「今日の内には博多まで帰れん」と怒鳴って、「船長に話してやる」と言っていた。てっきり平戸の宿の呼び込み屋かと思ってそれ以上は相手にしなかった。フェリーが出航して間もなく船内アナウンスが流れた。「お客様の中に今日中に博多にお帰りになるお方がいらっしゃいますので、航路を変更して平戸口に寄って平戸島に向かうことになりました」と言っている。あの爺さんは宿の呼び込みなどではなかったのだ。見ず知らずの旅人のために船長に掛け合ってくれたことが判った。後に奥稲荷から聞いたところによると、船が航路を変更するというようなことは殆ど考えられないとのことだった。長崎の人はバカどころか親切この上無い県民なのだ。

 週が明けて月曜日のドイツ語の特別クラスでの授業が終わったところで大籠が研究室に顔を出した。

 「先生、バイクば持ってきましたよって送っていきますよ」

 阿蘇山へのツーリング以来のことだったが、瞬く間にアパートに辿り着いた。

 「折角だから寄っていけよ」

「そうですか?そうやったら、今度先生ん家でコンパばしよるけん、ちーとお邪魔しておこうかいね」大籠は部屋の片付けでもさせられるものと覚悟を決めて階段を上がってきた。

 「お帰りなさ〜い」玄関を開けるなり私の首に手を廻した康子は私の後ろに突っ立ていた大籠と目があった。

 「あら、学生さん?」

 「うん、大籠君。バイクで送って貰ったんだ」

 「どうぞ、お入りになって」康子は大籠を招じ入れた。大籠はおずおずとキッチンの横の居間に入った。

「ボ、ボク。いつもは…タ、タケワキ…ムガって自己紹介しよりますばってん、みんなからは、ニ、ニシカワ…キ・ヨ・シじゃろぉ、云われよります」いつもの冗談めかした自己紹介がすんなりと出てこない。「あれ?どげんしたやろか?」

康子が吹き出した。大籠はお茶を一服呑んでそそくさと帰っていった。

 康子の一週間余りの滞在は瞬く間に過ぎ去った過ぎ去った。康子が帰るその日は授業があったために空港まで見送りには行けなかった。日も暮れようとする刻限に重い足を引きずりながら帰ってくると、食卓の上に「お帰りなさい。お仕事ご苦労苦労様でした。また来るね」と書いた康子の走り書きが目に入った。涙がこぼれそうになるのを必死に堪(こら)えてお茶漬けをかっ込んで、風呂に入ってジンライムを煽り、康子が整えてくれたいた布団に身を横たえた。ジンが効いたのか直ぐに眠り込んだような気もしたが、全く眠ってもいなかったようにも思える。康子と共に過ごした日々が私の脳裏を忙しく駆け巡り、私はいつまでも康子の面影を追い求めていた。幾度も眠りから覚めたような気もするが、それさえも夢の中の出来事だったようにも思える。朝になって目が覚めるまで康子の姿が現れては消えていった。夜が明けるまで私は恍惚としてその俤と戯れていた。うたた寝しながら必死に康子の姿を捉えようとしていたのかどうか自問しても沓としてわからない。やがてすっかり目が覚めて、腕を伸ばしてみても康子はもういない。私は本当にまた一人きりになってしまった。


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